冬の日のアパート
以前勤務していたHO記念病院の近くに小さい公園があり、横に古びた木造アパートが建っている。ある冬の日、私はここに来た。
昼過ぎ、警察から、私が毎月診察している患者さんのNAさんが亡くなっていたという知らせが来た。妻と離婚した初老のNAさんの部屋の電気が朝になっても点いたままなので、誰かが管理人に知らせ、入ってみたらNAさんが廊下で冷たくなっていたのだそうだ。財布からHO記念病院の診察券が出てきたのだという。
「え、昨日、診察したときには何も」という私を無視して、「先生、なんでこのひと、診てたんですか。この人の病気、何ですか」という高圧的な声。すぐに別の声が替わり「先生、すいませんけど、ここに来てもらうわけにいきませんか」と、こちらは低姿勢。正面玄関前に迎えに来たパトカーに乗り、アパートに向かった。
部屋には数人の警官と刑事がいて、すでに検分は済んだらしく、NAさんは、裸で薄い布団に寝かされていた。「NAさん、どうして…」。文字通り生気のない、紙のように白い顔を見ながら、職業柄思わず手首に指を当てたが、NAさんの手首は木の幹のようだった。刑事が私に腰椎穿刺をしてほしいという。腰椎に針を刺して髄液を採取し、それが血性であれば脳出血による死亡が考えられる。手袋や穿刺針の準備がされていたが、遺体に対する検査だから当然だが通常あるべき麻酔薬はなく、それでも刺すときには、いつも通り「ちくっとしますよ」と声が出た。
寒い部屋の隅の本棚に置いてある写真立てが目に入った。背の高いNAさんと並んで小太りの女性が笑っている。「この人は…」。この女性を、私は見たことがある。帰りのパトカーの中で、不意に私はこの女性の声を思い出した。「カロリーを控えめに…」「先生、カロリー高くて、しょっぱいものが美味しいのよぉ」。女性は、私の外来患者さんのSIさんだった。
HO記念病院の診察室のパソコンで、昨日の外来患者さんの一覧表を開いた。NAさんの名前のずっと下のほうにSIさんの名前があった。先月も、先々月も、NAさんの受診日の外来表には、SIさんの名前があった。NAさんとSIさんは、毎月外来で顔をあわせるうちに仲良くなったのだろうか。並んで笑って、一人暮らしのNAさんの部屋を飾る写真に納まるほどに。
次の月、予約した日にSIさんは受診しにやってきた。もちろん、NAさんの話は出ない。もしかしてNAさんの部屋の電気が点いたままなのに気がついたのって、SIさんじゃないのかなあ。もしかしたら、合鍵で開けた部屋で、冷たくなったNAさんを最初に見つけたのって管理人じゃなくて…。SIさんの背中に聴診器を当てながら、私は小説みたいなことを考えていた。
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